
—波止場に残る労働者の姿—
69号許家の雑貨屋
神農街に入ると、店前のあのパチンコ台に惹かれないのは難しく、それこそ69号許さんの雑貨屋の鮮やかな標識です。この古民家の歴史は許益嘉さんのお爺さん(兄弟で六番目)のに遡ることができ、民国前2年(1910年)の計算になります。許さんの奥さんによると、祖父は運搬の労働者でした。当時の北勢街(今の神農街)と後ろの北勢港には多くの運搬労働者が集まっており、貨物の運搬を請け負っていました。それは肉体労働の中でも、きつい仕事に属しています。民国前2年(1910年)は、ちょうど日本統治時代の初期にあたり、五條港は安平開港の影響で次第に廃れていきましたが、日本統治時代初期の北勢街は依然とかったため、許家はまさしく日本統治時代初期、北勢街の許姓の波止場の労働者の生活描写であり、神農街の同郷の許姓であり、同じく金華府を祖地とする信仰の代表なのです。

69号のお宅は許さんのお爺さんが30歳の時に北勢町に来て建てたものです。当時家を建てた材木はすべて日本の内地から輸入して建てたものです。屋の構造は当時一般的な二棟の間に井戸付きの中庭がある二進一でしたが、井戸は時代とともにその機能が失われて、埋められました。ほかの神農街の家と同様に、家族が同居している場合は一戸ずつ住んでいます。 初代のお爺さんには七人の子供がいて、許益嘉さんのお父さんは六番目で、許益嘉さんは五番目で、8人の兄弟姉妹がいます。オーナー許さんのお父さん世代を中心に、臨神農街の1階はもちろん店頭で、伯父さん一家がずっと雑貨屋を経営し、その2階に住んでいました。二棟目の一階の前には祖先や神様を祭る神明部屋があり、後ろには四番目の伯父さん一家が住んでいました。四番目の伯父さんは印刷と木工の内装をしていました。 神明部屋の真上の二階には六番目一家、許益嘉さん一家が子供の頃、家族全員が住んでいた所で、二階の前は両親の部屋で、後の部屋は兄弟姉妹が一緒に住んでいました。 とにかく、お金儲かった親戚は次々に引っ越していき、最後は四番目の伯父さん夫婦が残りましたが、ご夫婦が亡くなって家には誰も住んでいなかったので、許益嘉さんと奥さんが引っ越してきて、すでに八年になりました。

このような大家族が一緒に住み、一人一人の職業も違っているため、多様多彩で非常に面白いのです。五番目の家族の仕事は助産士で、神農街に住んでいた当時の新生児はすべて伯母さんが出産に立ち合いました。古民家85号の王仁志教師のご家族全員は、許家の助産師が出産に立ち合いました。王仁志先生の記憶によると、五番目の許永元は当時治安の維持などをする隊長の里長(注:日本統治時代の名称は「保正」。であり、公家機関で仕事をし、孔廟でも委員を務めたことがありました。 とにかく、家族の中には海外に移住した人もおり、毎年の冬には、この家に帰って来るのです。家族の中には医者や教師(になった人もいれば、バスの運転手になった人もいたりで、かなり発展しています。

許益嘉さんは二十何歳の時にご両親が亡くなったため、神農街を離れて自立しました。そのため、神農街の旧家に残った多くの親戚のように進学することができず、水電工として働いていました。しかし、過労だったため、2004年に最初の脳卒中を患い療養後も水道と電気の仕事を続けていました。8年前に神農街に戻ってきて、69号の入り口に水道と電気の看板を掲げて仕事を続けていました。台南市文化協会の創設会長の鄭道聡先生は、水道と電気の仕事がある時には必ず許さんに頼んでいました。さらに、神農街での初期のランタン展を開催した時も、水道・電気の部分も許さんが取り付けました。69号は水道と電気の仕事をしていることは誰もが知っているので、皆、許さんに頼んでいます。その後、二度目の脳卒中を引き起こした後、歩くのが不便になり、時には気を失ったり転んだりしていました完全に静養しなければならず、今では、親しい人だけに簡単な仕事をしています。
このような縁で、向かいの74号の鄭道聡先生が店を開きました。この古民家はかつて里芋のアイスクリームと雑貨を>売っていたことを思い出したので、冷凍庫を設置して里芋アイスを売り始めました。最初は里芋アイスだけを売っていましたが、次第に雑貨が追加され、雑貨屋になり、まるでこの古民家の昔、雑貨と里芋アイスを売る店に戻ったかのようでした。当初はお店として経営されていたのかもしれません。というのは、店の一階の後ろに続く中庭に接した位置には、門ほど大きい穴があるのに、扉がないのは、荷物を取りやすくするためなのでしょう。
今度、神農街にいらしたら、子供の頃の里芋アイスを焦って買って食べないで、まずパチンコして遊びましょう!もし運が良ければ、二玉、あるいはいくつもの里芋アイスが当たって、昔懐かしい神農街の地元アイスが味わえるかもしれません。


