北勢街の商業組合最後の姿

許藏生前の旧家

近年、台南市政府は亡くなった有名人が生前住んでいた家に案内看板を掛けることを大いに推し進めています。これは地元文化を整理し、保存するだけではなく、それによって観光客を増やそうと望んでいます。清朝時代、最も重要な貿易の場所であった北勢街は言うまでもなく、商業組合をテーマとした有名人の生前の旧家もあります。海安路から北勢街(現在の神農街)に入ると、古民家57号の前に有名人許藏春さんの旧家を説明する立て看板が見えます。それは北勢街商業組合最後の証なのです。

▲57号許藏春の旧家の歴史

実のところ、古民家の表札、57号は許藏春さんの旧家ではなく、およそ光緒年の間(1875‐1908年)、この古民家は景祥号の社員寮でした。景祥号といえば、台南市文化資産保護協会理事長曽国棟理事長によると、彼の研究によれば景祥号は黄景祥さんが創設したものです。許藏春さんは、およそ清朝末期、五條港に来て、許姓の勢力にがあった北勢港を頼りに、最初は景祥号で雇われていたが、勤勉で仕事も上出来だったため、所有者の目にかなって、会計に昇格されました。その後、景祥号の所有者が亡くなり、所有者の家の事業と子供の教育をサポートし、ついに元締めを30年間も担当しました。砂糖雑貨の売買に従事していたため、「金永福号」、「金陞美號」、「協慶號」、「金永發號」と4隻の貿易船を管理し、清朝末期と日本統治時代の重要な商人となりました。

▲景祥号は清朝末期には4隻の貿易船があった

日本統治時代で活躍していた許藏春さんは、総統府の資料からも彼が台南市の地方裁判所の旧慣嘱託、台南学務委員、地方税委員、保甲(注:日本統治時代の自治組織による治安の警備、生活改善と相互連絡強化を行う役員)、衛生局長と三郊商業組合二代目の会長を担当し、清朝の三益堂の商業組合三郊のくじ引きによるローテーション制度を引き継いでいました。許藏春さんは三郊商業組合初代の会長王雪農さんと連携して、二人は砂糖業と三郊組合の会長を前後担当していただけでなく、事業も古都の台南の北勢街と鹽水にまたがって関係が深いものでした。許藏春さんは三郊商業組織が地方の公益のために、努力する精神を引き継ぎ、法華寺と水仙宮を再建しただけでなく、許家の祭祀と信仰の中心である「金華府」の再建に金銭を寄付して、募金活動も行いました。最初はもともと74号にあった金華府会館の特色である故郷の信仰を74号向かいの71号に移転することが主だったのです。晩年の許藏春さんは故郷である石獅鳳山に戻って晩年を過ごされ、五名の子供たちも彼について故郷に戻り、五條街の北勢街の事業は、一番上の孫許炳煌さんに任せて、益泰行が成立され、戦後まで経営を続けました。

▲許藏春が担当した職務

▲1999年前、街がまだ前の57号の姿

(台南市文化協会創設会会長鄭道聰の提供)

許藏春さんの旧家は海安路と神農街のはずでしたが、中華民国80年(1991年)に海安路の道を拡大するプロジェクトによって徴収されました。当時の許家の財産から判断すると、生前住んでいた家は今の神農街の偶数で、偶数の家の前は神農街で、後ろには佛頭港があり、その深さは70mはありました。そして、57号はずっと社員寮と倉庫として使われていたが、益泰行が廃業するとともに社員寮の57号も廃棄されたままでした。2007年台南応用科技大学美術科の卒業生たちは作品が展覧できる空間を探し求めて神農街を訪れ、57号の古民家が気に入り、陳美惠さんを始めとする四人がここで働き始め、徐々に七人となりました。工房は57と名付けられ、家屋の番号57号が自然とスタート点となり、古民家に57の透明な表札を掛けても全く違和感がなく、静かな神農街にとても似合っています。

▲見って!!!辛記藝品は骨董品や家具が沢山揃えます~!

57工房の主なアピールとしては、「「芸術」と「生活」が一体の超異能的な空間であり、「芸術」が人々にサプライズのある「生活」を提供することを望んでいます。創設以来、スポンサーと収入は全くなく、これまで日本の文部科学省にあたる文化部、市政府の文化資源活用課などにあたる文化局などの機構からわずかな補助金を申請するだけでした。古民家の井戸がある中庭を通って二棟目の家屋は工房で創造した商品を売る展覧エリアもあり、一番前の部屋の空間は展覧スペースとしてレンタルされ、他のデザインナーにも展覧できるスペースがあることを望んでいたので、展覧スペースのレンタル料も水道代と電気代とほぼ同額でした。57号の工房は、その後、向かいの76号の「76アートスペース」と共同展覧し、「私達は同居しました! 57号と76号の創作共同展覧」と名付けました。その後、仲間はアイスクリームを伝統的な椪餅(注:ポンビンは小麦粉で揚げた中が空洞で焼いた砂糖がかすかに入っている台南伝統的なお菓子)の中に加えてトッピングし、椪冰(ポンピン)となりました。それがネットと神農街で話題となり、57工房の看板にもなりました。

▲57工房、椪冰(ポンピン)を販売していた時期

57号の工房に引っ越してからは、台南市文化資産保護協会が、かつての商業組合の文化を保存するために、この古民家を受け継いでいました。2017年、有名人が生前住んでいた家としての案内看板を掛けることになった他、家屋も整理して五條街を説明する台南歴史文化の展覧空間になり、協会のボランティアの時間がある時にだけ、一般開放されています。古民家に設置され、飾られているものはどれも協会の会員たちが提供したその家屋に関連性のある物です。例えば、さまざまな竿秤、そろばんなど、また、その家にもともとがあった古いこんろは、特に深い意味があります。その他にも、同時代の喫煙パイプ、パイプオルガン、古いドレッサー、電話などは神農街に面した一棟目の家屋の二階に陳列しており、一階には長いテーブルをおいて、観光客が足を休めて交流のできる空間となっています。そこには五條街の由来の歴史と古街道の説明看板、古地図と古写真がある他に、景祥号と益泰行の看板と許藏春さん本人が清朝時代の服装を着た写真と説明看板が掛けられています。受付には台南市文化資産保護協会歴代の台南出版の本が置かれており、家屋一進の一棟目と二進の二棟目の間にある中庭の天井(テンチン)にも許家の子孫が現在販売されている雑貨があり、すべてセルフサービスを採用し、本や雑貨を買いたいお客さんは自ら金銭を募金箱に入れる仕組みになっており、協会はこの資金が寄付金であり、その用途はすべて文化資産の推進に使われることを強調しています。

▲二階の展示品

文化資産保護協会の整理を通じて、古民家は以前の美しさを取り戻しました。許藏春さんの旧家ではなく、作業員の寮だったものの、よく保存されているため、家屋の空間を通じて当時の北勢街近くの家屋を理解し、認識することができます。古民家の構造は二進一落(アーチンイーロ:神農街に面した一棟目の家屋一進と井戸のある中庭である天井(テンチン)を挟んで、その後ろにある二棟目の家屋二進)で、二棟目の家屋の二進は、すでに半分に区切られ、もう一戸の別の家族の所有となってしまい、出入り口は元北勢港の跡の防火通路にあります。それでも、当時の北勢街商業組織の様子が窺え、一進二進を問わず、二階に上る階段は入口の右側にあります。

57号の古民家は最も貴重な場所、露天の中庭の天井(テンチン)の保存はよく、半円形の井戸は今も水を汲み取ることができます。一進と二進の間は以前、雨よけの水廊道(スイランダオ)があり、自由自在に一進と二進の間を行き来することができました。しかも二進の門構えは当時のままで、赤色の門聯(注:門の両側と上に貼る対聯)に古い赤レンガ、青いの扉と窓枠、素朴な様式には格別な風情があります。

現在の57号、神農街に面した店構えは、1999年に改装されたもので、日本統治時代早期の木製フレームとガラスをを組み合わせた扉を採用し、古い町の趣のある雰囲気のまま残しています。理事長の曾國棟さんはこの古民家の扉の上の枠にある多くの穴を特別に説明し、清朝時代のこの古民家の扉は今のレールのある引き戸ではなく、一枚一枚の板になっており、凹凸の切込みによって扉をそれらの穴にロックできるのは、商売に必要な大きな門構えのために設計したもので、中庭の天井(テンチン)の後ろにある二進のプライベートを重視したデザインの門構えとは全く違うのです。また、二進は屋根裏の空間が保存されているため、その二階だけではなく、屋根裏にも上がることができます。神農街の古民家の二進の部分が、多数壊れて再建されたり、或いは安全性を強化した改築に元の姿が見られなくなった現状においては珍しく貴重であるため、協会によって、許藏春さんの旧家を保存して経営することは、神農街商業組合のエコミュージアムの空間の重要な役割を担っているだけでなく、後世の子孫にも商業組合最後の生活の跡が窺がえると話していました。