―50年代神農街生活縮図が満載されている―

辛記藝品

神農街に入って行くと、色とりどりの切り紙細工がおのずと目にと留まり、よく見ると、切り紙細工の上に「辛記藝品」と四文字が書かれており、濃厚な正月の雰囲気を醸し出す切り紙細工から、すでにここは伝統的な民芸品が売られていることが暗示されています。

▲ウァー!辛記藝品の外で沢山春聯や紙細工があります~

辛銘發オーナーのお爺さんの代からここに住んでおり、家屋はすでに百歳以上になりました。辛オーナーの小さい頃からお父さん(姓は辛)、お母さんと一緒に住み、妹さんたちは母方のお爺さん(姓は鍾)、母方のお婆さん姓は陳)と伯母さん、伯父さんと従兄弟姉妹たちは53号と55号に住んでいました。元々母方のお爺さん、お婆さんと二人の伯母さんと伯父さんと一緒に55号に住み、辛オーナー一家は53号の(注:同じ敷地内の二軒目の家屋)の一階に住み、53号と他の場所は貸し出していました。55号は神農街に隣接しており、一時貸し出していたものの、それほど経っていなかったので、自宅だと言えます。神農街で奇数番号の家屋は二進一落(注:神農街に面した家屋とその後ろの二軒目の家屋を繋ぐ庭、井戸がある場所を指す)の構えなので、55号の家屋の前はリビングで、真ん中は庭になっており、後ろは一世帯が住むことができ、奥には台所があり、台所の上にはベランダもあります。55号はかつてパーマ屋に貸し出していたが、時間が短く、自分たちで一時雑貨屋を経営し、後ろはを倉庫に使い、母方のお婆さんは神農街に面した一番前の家屋の二階に住んでいました。その後、お爺さんと伯父さんと伯母さんも他へ引っ越し55号が空きましたので、伯母さんが水仙宮の市場で営む雑貨屋の専属倉庫となりました。伯母さんの雑貨屋は台南でも名の知られた店で、各種の黒豆、白インゲン豆、黒糖、白砂糖やききのこなど、色々なものが売られていました。海安路の道幅が広げられると同時に、神農街は区切られてしまったため、 人の流れが海安路と水仙宮市場に移動した上、伯母さんがリタイヤして雑貨屋をほかの親戚に譲り、新しいオーナーも新たに倉庫を見つけたため、辛一家は53号から55号に引っ越し、妹さんたちは同じ部屋を使わずに済み、生活環境はかなり改善されたとのことです。

▲1999年整備前の 53号(左)と55号(右)の様子

▲今53号の使用状況ともと清朝時代の使用方法

現在ある53号の辛記民芸品は元々辛オーナーが六人家族で二進(注:同じ家の後ろ、敷地内にある二番目の家屋)の一階に住んでいました。辛オーナーが53号に住んでいた時や55号に引っ越した時も、どんな時も家は最初から貸し出されていました。代わるに借家する人たちの状況から、台湾50年代神農街での一般庶民の生活縮図が見られます。 一階、二階は共に三世帯が住むことができ、神農街に住んでいる住民たちは元々一軒目と二軒目の家屋を繋ぐ敷地内の中庭にある井戸水を使用し、風呂場として共用していました。しかし、53号は北勢港寄りで水深が比較的浅かったため、中庭に井戸を掘らなかったのか、あるいはもともと井戸があったのかどうかは定かではありません。辛オーナーによると、井戸を見た記憶がまったくないとのことでしたので、民国初期(1912~1928年)か日本統治時代に埋め立てられた可能性が大いにあります。 井戸がないのでしたら、53号と55号はどうやって水を使っていたのでしょうか。辛家の末っ子の妹さんの筱淇さんの記憶によると、53号と51号の間に牛肉巷という横の巷の中間に手押しポンプがあってそこで水を汲んでいたとのことでした。現在、手押しポンプはすでに無くなり、かつて台湾で古物が流行っていた年代、路上にあった手押しポンプは自然と泥棒の所有物となってしまいました。

▲今55号の使用状況ともと清朝時代の使用方法

辛オーナーと妹の筱淇さんの記憶に53号は、かつていろいろな人たちに貸し出し、そこに出入りしていた借家の人たちとの温かい物語から、50年代神農街での生活状況がうかがえます。辛家がまだ53号の二進に住んでいた時、神農街に面した家の一階の店は永川大轎に貸しており、当時、永川大轎の工房は49号で多くの木材はそこに積み上げられて置かれていましたが、大きな木材の切断などは53号で処理されていました。 また辛家は55号に引っ越した後、その後、辛家が55号に引っ越してから、永川大轎も工場に移転しました。もともとあった店先は洋服の仕立て直しの工房に貸していましたが、1971年頃になって、辛家が自分たちで果物屋を開くこととなった。この果物屋の由来について、筱淇さんは自分の幼い頃のもっとも大切な思い出の一つになったと話していました。 筱淇さんの話では、子ども頃の自分は食いしん坊で、もともと55号の向かいが駄菓子屋で、駄菓子屋にはいろいろな飴が売られていて、当時は台湾元5銭で飴が約4つ買える時代でした。色とりどりでとても魅力的で、その他にも今に似た穴を空けて当てるお菓子のくじ引きがあり、食いしん坊だった自分はよく母親にねだり、母親はそれに耐えかねて、自分たちで簡単なお菓子や飴を売ることにしたそうです。 辛さんのお母さんは最初、筱淇さんがその内お菓子を食べ飽きれば、自然とやめるだろうと思っていましたが、逆に大勢のお客さんを惹きつけました。その時兄(辛オーナー)と姉が商機を見い出し、面白いと感じ、休日に果物を卸して店先で売るようになりました。そのうち、フルーツを切って盛り合わせてデザートにして売ったり、さらに簡単なジュースも作るようになりました。辛一家にとって、それは楽しく、素晴らしく、面白い果物屋の日々だったのです。

▲今55號の使用狀況ともと清朝時代の使用方法

辛オーナーと妹の筱淇さんの記憶に53号は、かつていろいろな人たちに貸し出し、そこに出入りしていた借家の人たちとの温かい物語から、50年代神農街での生活状況がうかがえます。辛家がまだ53号の二進に住んでいた時、神農街に面した家の一階の店は永川大轎に貸しており、当時、永川大轎の工房は49号で多くの木材はそこに積み上げられて置かれていましたが、大きな木材の切断などは53号で処理されていました。 また辛家は55号に引っ越した後、その後、辛家が55号に引っ越してから、永川大轎も工場に移転しました。もともとあった店先は洋服の仕立て直しの工房に貸していましたが、1971年頃になって、辛家が自分たちで果物屋を開くこととなった。この果物屋の由来について、筱淇さんは自分の幼い頃のもっとも大切な思い出の一つになったと話していました。 筱淇さんの話では、子ども頃の自分は食いしん坊で、もともと55号の向かいが駄菓子屋で、駄菓子屋にはいろいろな飴が売られていて、当時は台湾元5銭で飴が約4つ買える時代でした。色とりどりでとても魅力的で、その他にも今に似た穴を空けて当てるお菓子のくじ引きがあり、食いしん坊だった自分はよく母親にねだり、母親はそれに耐えかねて、自分たちで簡単なお菓子や飴を売ることにしたそうです。 辛さんのお母さんは最初、筱淇さんがその内お菓子を食べ飽きれば、自然とやめるだろうと思っていましたが、逆に大勢のお客さんを惹きつけました。その時兄(辛オーナー)と姉が商機を見い出し、面白いと感じ、休日に果物を卸して店先で売るようになりました。そのうち、フルーツを切って盛り合わせてデザートにして売ったり、さらに簡単なジュースも作るようになりました。辛一家にとって、それは楽しく、素晴らしく、面白い果物屋の日々だったのです。

▲辛家早期に果物を売ることの景況
▲昔、果物を売り以外フルーツを切って盛り合わせやジュースも売りましたよ~
▲ジュース一つお願いします~

53号の二階の賃借人は他の人より固定し、神農街に面した一進の家屋の二階、この空間は、先ほど清王朝時期の買弁時期で、荷物が堆積し常雇に住ませる所です;神農街全体の二進、ある人家は二階があり、ある人家は二階がありません、先ほど清王朝時期で倉庫になっています。
辛オーナーのイメージで、二階の一進と二進は空間が狭いだが、三世帯とは窮屈して、神農街に一番近いに住んでいる人家が街角で果汁を売っています;後ろには、手押し車を使って蕃薯椪を売るの街商人家、真ん中の位置なら一世帯の核家族が住んでいます。
二階の賃借人ほぼ安定、動くことが少ないだが、筱淇さんのイメージで、先ほど二階の前で在郷軍人のお爺さんが住んで、筱淇さんがお爺さんへよく遊びに行き、お爺さんは筱淇さんを見たら、火を熾たりパン生地を作ったり、クッキー抜き型を持って出すと、丁寧にクッキーを焼いて上げ、毎々焼いたクッキーをもらったらすごく嬉しいかった。今回想すれば、工夫だなあーと思う、ただ子供が遊びに行くため、火を熾たり、パン生地作ったり、このクッキーお爺さんの借家は筱淇さんの秘密基地になり、彼女だけ楽しめるのワンダーランドになりました、これも筱淇さんの大切なメモワールでしました。

▲見って!!!辛記藝品は骨董品や家具が沢山揃えます~!

辛記の貸し付け状況と借り手の業種から見ると、神農街は50-80年代(1961-1991)の模様と景況を見られ、多種多様な業種は神農街に見いだされます、それこそ辛オーナーは神農街が台南で一番の街を称することの理由でした! 皆は金華府を重心に、出漁をするとか、何ことをする前何でも廟に来て、関羽に聞いて許されます。時代の推進と転変によると、借り手たちは続々離れ、先にこっちで生活するの兄弟姉妹と親戚も続々と離れ、だんだん倉庫になりました。
ちょうど十年前、辛銘發さん(辛オーナー)は退職し、筱淇さんは占うに関する本を出版したいけど、出版社は筱淇さんが工房の名義で出版することが希望、辛オーナーは小さい頃の神農街で屋敷を思い出した、家屋は長時間人に住むことがありませんから減衰し、元建築業者の彼に見るに忍びないん。特に子ども頃の思い出はここに沢山あります、すると、また神農街に帰って、趣味にして工芸品屋を開きました。その縁で、お婆さんが使った百年超えたドレッサー辛オーナーはこれを門口に運び、飾り物になりました、かつてお婆さんが雑貨店を営業したの精神を続く。

▲辛オーナーは店にある品物を整理するの景況

辛オーナー日頃は骨董や茶器や仏座などに関する品物に収蔵するのが好み、十年、二十年に積もり積もると、数が計り知れない。民芸品屋での陳列方式は一類の芸術品を揃い、便利に見せられる、辛オーナーは普段座っている場所の前、右側の戸棚に数々の茶瓶が見えてき、辛オーナーは暇な時にブラシを持って、茶瓶にブラシします。後ろなら辛オーナーを守っている色んな姿があるの仏座を見られてき、この建物で独特な天窓に通する、日差しが百年住宅に入り込んで、骨董や工芸品がキラキラに射されて、古い町並みに重要な隅になります。